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窓の外で、海が鳴っていた。
海原瑠理子(かいばらるりこ)が潮風を直接肌に感じなくなって、三か月が経っていた。 この別荘へ連れて来られてから、彼女は一度も外へ出ていない。門には鍵がかけられ、スマートフォンは取り上げられ、庭を歩くことすら許されなかった。父は不正の濡れ衣を着せられて失脚した。母は謎の事故で死んだ。祖父の代から続いた海原グループは、持ち株を買い集められ、役員を一人ずつ差し替えられ、いまでは名前だけを残した別のなにかに変わっている。
そして瑠理子自身も、この部屋へ閉じ込められた。
三か月前まで手入れを欠かさなかった長い髪は艶を失い、今はろくに梳かしてもいない。毎日のように泣いていたせいで目元は腫れ、何度も淳を責め、叫び続けた声はすっかり掠れていた。
かつては海原家の一人娘として華やかな場所に立ち、誰もが羨む人生を送っていた。
そんな瑠理子からすべてを奪ったのは――彼女の夫だった。「淳(じゅん)」
名を呼ぶと、扉の前に立っていた男が振り返った。
海原淳(かいばらじゅん)。三十一歳。海原グループの新しい代表取締役。そして十年前、身寄りを失って海原家へ引き取られてきた、橘淳という痩せた青年。彼は婿養子として海原家に迎えられた。
瑠理子は、彼のためなら何もかもを差し出せると思っていた。
実際、差し出した。家柄も、周囲の反対も、後継者としての立場も、すべてを押しのけて彼と結婚した。世界で一番幸せな妻だと信じて疑わなかった。その結果、この部屋に閉じ込められている。
「気分はどうですか」淳の声は昔と何ひとつ変わらない。
低く、静かで、こちらを気遣うような声。
熱を出した夜に、朝までそばにいてくれた声。
結婚式の日、「綺麗だ」と囁いてくれた声。
今では、その優しささえ復讐のために作られたものだったのではないかと思う。
それなのにまだ、その声を聞くだけで胸の奥が揺れる。
そんな自分が、瑠理子は何より許せなかった。 「聞きたいことがあるの」「どうぞ」
「私の父を潰したのも、母のことも、この会社のことも、もう責めない」
淳の眉が、わずかに動いた。
「あなたが海原家を憎んでいたことも、今なら分かる。だから最後に、ひとつだけ教えて」
言葉が喉で一度つかえた。
これを訊いてしまえば、もう戻れない。 それでもこの三か月、眠れない夜のたびに、瑠理子の内側で膨らみ続けたのは、この問いひとつだけだった。「一度でも……」
声が震えた。
「私を愛したことはあった?」
淳が瑠理子を見た。その表情が初めて揺れた。
「……瑠理子」 唇が開く。けれど、続く言葉は出てこない。淳は何かを言おうとしているようだった。
視線を伏せ、また瑠理子を見る。喉が小さく動く。
彼は答えない。それでも瑠理子は待った。
たった一言でよかった。嘘でもよかった。愛していた――そう言ってくれたなら、この十年間すべてが偽物ではなかったと思えたかもしれない。
けれど、淳は答えなかった。
瑠理子の中で、最後まで残っていた何かが静かに折れた。 答えられない事実が、残酷な答えなのだ――瑠理子は立ち上がった。淳の脇をすり抜け、そのまま廊下へ出る。部屋の扉は、彼が入ってきたため鍵が開いていた。
廊下にいた使用人が驚いたようにこちらを見る。けれど瑠理子のすぐ後ろには淳がいる。誰も、瑠理子がどこへ向かっているのかまでは分からなかったのだろう。
瑠理子は早足で歩いた。やがて海に面したテラスへ出る。三か月ぶりに潮風が直接頬へ触れた。
夜の海はどこまでも黒く、底など最初から存在しないように見えた。
「瑠理子!」 背後から、淳が名前を呼んだ。その声に呼ばれれば、瑠理子はいつも振り返った。喧嘩をした日も、泣いていた夜も、どれだけ腹を立てていても、淳に名前を呼ばれると、結局は振り返ってしまったのに。
その夜は、初めて振り返らなかった。 「瑠理子、待って」冷たい風に頬を撫でられるまま、瑠理子は目を閉じた。
淳。好きだった。誰よりも愛していた。
だからこそ、もう耐えられなかった。
あなたが惜しみなくくれていた愛が、本物ではなく、偽物だと気が付いてしまった今は――(もし、生まれ変わることがあっても)
瑠理子は柵の向こうへ身体を預ける。
(あなただけは、もう愛さない) 「瑠理子!」 淳の叫び声を振り切った。次の瞬間、瑠理子の身体は夜の海へ落ちていた。瑠理子の問いに対して淳が答えられなかったのは、答えがなかったからではない。
この恋は復讐のために始めたものだった。それは事実だ。ならば、いつから本気だったのか。どこからが計画で、どこからが自分だったのか。十年分の記憶を掻き回しても、境目が見つからなかった。だから、なにも言えなかった。ただそれだけのことだった。
だが彼女の姿が柵の向こうへ消えた瞬間、淳は理解した。
境目など、最初からなかったのだ。
—―復讐などどうでもよくなっていた。本当は、死ぬほど瑠理子を愛しているのだ。
かわいくて。
自分だけを一心に愛してくれた。
でも、自分は海原家に恨みがあって、復讐しようと瑠理子に近づいた。
瑠理子を取り戻そうと、淳は考えるより先に手すりを越えた。
荒れ狂う冷たい海へ飛び込む。
「瑠理子!」 水面へ顔を出して叫び、また潜る。暗い。
何も見えない。
それでも必死に腕を伸ばせば、白いものが見えた。
瑠理子の手だ。
淳は夢中で泳いだ。
あと少し。
あと少しで届く――
指先が触れるが、水の中ではうまくつかめず、瑠理子の手は淳の中から滑り落ちた。
「……っ!」
もう一度伸ばす。
もう届かない。
瑠理子の姿が暗い水の底へ消えていく。
その瞬間、さっきの問いが頭の中に蘇った。 『一度でも……私を愛したことはあった?』 答えればよかった。君の笑顔が好きで、触れたくて、失いたくないから閉じこめた。
あの男から守るために……。愛しているなどと口にすることが、あまりにも卑怯に思えた。
復讐のためにと自分の手で何もかも壊しておきながら。今さら彼女に愛を告げる資格などないと思った。けれど。
「瑠理子……!」
もう見えない。どれだけ潜っても、どれだけ手を伸ばしても、彼女はいない。
肺が苦しい。身体から力が抜けていく。
淳はもう一度水の底へ手を伸ばした。
「瑠理子……愛してる」 泡と一緒に、届くはずのない言葉が零れた。瑠理子に届かなければ、何の意味もない。
瑠理子のいない世界は、もう、絶望しかないだろう。
冷たい海の中で、ゆっくりと瞼が落ちていく。彼女を愛したことも、彼女を傷つけたことも、すべてを抱えたまま、
瑠理子の後を追うように、淳も深い海の底へ沈んでいった。
翌朝。瑠理子は自室で目覚めた。もう二度と淳に関わらないでおこうと思う反面、自分が突っぱねることによって、彼の行き場がなくなるのではないかと心配している自分もいた。 矛盾した感情が彼女の思考をおかしくさせる。 昨日、父の部屋での続きを思い出した。御堂直之との見合いの了承後、茶を持ってきた淳が出て行ってからの話だ。「あの子の父親は、財務担当役員だったのだ。二十年前、うちが銀行に見放されかけたとき、たった一人で全国の取引先を回って頭を下げ続けた。あの人がいなければ、海原グループはとっくに消えていた」 知っている。 瑠理子は前世で何度もその話を父から聞いていた。 しかしまるで初めて聞いたようにふるまわなければならない。「その恩人の忘れ形見が、事故で両親を亡くして、身寄りをなくした。二郎が方々を当たって、あの子の居場所をようやく突き止めてくれたんだ。うちが引き取らなければ、あの子はどこへ行く」「……お父様」「瑠理子。海原の人間は、恩を返せなくなったら終わりだ」 瑠理子は膝の上で指を組み直した。淳を追い出すことは難しそうだが、彼が路頭に迷うのも気が引けた。 今はまだ、彼は自分を殺していない。 これからそうするのかもしれないが、そうなる前に手を討てばいい。 今世では関わらないように生きれば、いいのではないか。 「わかりました。では、条件を出させてください」 父が初めて振り返った。娘の顔に見慣れない硬さを見つけて、わずかに眉を寄せる。「彼の部屋は、母屋ではなく使用人棟にしてください。それから、会社の書類がある部屋には近づけないこと。役員の集まりにも同席させないこと。海原グループに入社などは認めません」「……瑠理子、お前」「恩を返すというのは、住まいと学費を用意することでしょう。海原グループとは関りを持って欲しくありません」 言い終えてから、瑠理子は自分の声が思ったより冷たく響いたことに気づいた。 長い沈黙のあと、父
その日は朝から陰鬱な雨が続いていた。淳が大学から戻った頃には、雨脚はさらに強くなっていた。父と母は外出していた。どこへ行ったのかまでは聞いていなかったが、夕食までには戻ると聞いていたのに、夜になっても帰ってこなかった。 何度か電話をかけたが、父のスマートフォンは繋がらなかった。 淳はなんとなく嫌な予感がしていた。 もう一度父か母に連絡を取ろうとした時、スマートフォンが鳴った。知らない番号がディスプレイに表示されている。「はい」『橘淳さんのお電話でしょうか』「そうですけど」 相手は警察だと名乗った。『警察』と聞いた瞬間、身体の芯が冷えた。「……父に、何か?」 声が震えた。頼む頼む、無事であってくれ――『ご両親が交通事故に遭われました』 急いで病院へ駆けつけたときには、父も母ももう帰らぬ人になっていた。 警察は事故だと言った。雨で濡れた高速道路で父の車が車線を外れ、大型トラックと衝突したのだと。 淳は前夜に録音した音声も聞かせて警察に訴えた。『約束が違う』『私はもう黙っていられない』『証拠ならある』 けれど、相手の声は入っていない。 事故車両にも不自然な細工は見つからず、警察は事故との関連を認めてくれなかった。「――警察は事故だと言いました」 淳はグラスを見つめたまま呟いた。「でも俺は納得できません。二郎さんの言う通り、父も母も誰かに殺されたんです!」「そうだろうね」 二郎は静かに頷いた。「前日にそ
「……殺されたってどういうことですか?」 淳が二郎に詰め寄った。「なにか知っているのですか!?」 「しっ。声が大きい」 「あ、すみません……」 慌てて声のトーンを落とす。 「落ち着いて聞いて欲しい。殺されたとは言ったが、これは私の憶測にすぎないんだよ」 まあ飲もう、と言って二郎は淳にひとつグラスを渡した。持参したワインを注いでくれた。芳醇な香りがした。 「警察は事故だと判断した。証拠もない。だから私は、誰かを犯人だと言うつもりはないよ」 「じゃあ、どうしてそんなことを?」 「義昭さんが亡くなる直前、様子がおかしかったからだ」 淳の胸が大きく鳴った。父とのやり取りが脳裏に蘇る。 「……父さんの?」 「君も何か見たんじゃないか?」 二郎は淳を見た。 「事故の前に」 淳はすぐには答えられなかった。 あの夜の光景が、鮮明に蘇る。 落ちた書類から見えた、三億二千万円という巨額の送金。そして怯えていた父が電話口で叫んでいた言葉。『私はもう黙っていられない』『証拠ならある』 淳は唇を湿らせた。 「二郎さんは、海原グループの会長なんですか?」「いや。会長は父だよ。兄の一郎が社長で、私は副社長だ」 (なら、この人は父さんが気を付けろと言っていた、会長じゃない……) 淳は父とのやり取りを、自分のことで親身になり、世話をしてくれた二郎に話してみることにした。「……死ぬ前日、父さんは家に会社の書類を持ち帰っていたようです」 「まあ、財務担当だから、書類を持ち帰ることもあっただろう。本来はご法度なんだがね」 淳は二郎の顔をじっと見ていた。 書類の話をした瞬間、何か反応が出るのではないかと思ったのだ。 しかし二郎は続きを急かすこともなく、静かにグラスを傾けている。 (……この人じゃないな。なら、続きを話してもいいか)「海外法人への送金記録でした。三億以上の金が動いていて、知らない会社の名前がいくつも並んでいました。この目で見たんです」「そうか」 様子を伺っているが、彼はいたって冷静だ。「それについて尋ねたら、父さんはすごく怒りました。あんなに取り乱した父さんを見たのは初めてでした」 二郎がわずかに眉を寄せた。「それだけじゃありません」 一度話し始めると、止められなかった。 あ
「父さん?」 淳は、リビングの明かりがついていることに気づいた。時刻は深夜零時を大幅に回っていた。 父・橘義昭が、ダイニングテーブルに大量の書類を広げている。 昔から仕事熱心な男ではあったが、その夜は様子が違った。ネクタイは外れ、シャツのボタンも二つ開いている。灰皿には、普段ほとんど吸わない煙草が何本も潰されていた。 淳に声をかけられた義昭が、慌てて紙を裏返した。かなり焦っている様子だ。「まだ起きてたのか」「そっちこそ。こんな時間まで仕事?」「ああ……まあな」「顔色悪いけど……」「大丈夫だ」 明らかに大丈夫ではなかった。父の手が小刻みに震えている。 淳は父のいるテーブルへと近づいた。「仕事で何かあったの?」「何もない」「じゃあ、その書類は?」「淳」 突然、強い声で遮られた。父がこんな恐ろしい声を出したことはほとんどなかった。「これは、お前には関係ない話だ」「……わかったよ」 淳が引こうとしたとき、先ほど父が裏返した紙のうち、はみ出た一部が落ちた。 拾い上げると、海原グループの内部資料だった。 それは海外法人への送金記録で、三億二千万円ほどの額。その下に見慣れない会社名が並んでいた。「父さん、これ」 義昭が紙を奪った。「見るな!」 怒鳴り声が部屋に響いた。 二人とも動かなかった。 やがて義昭が、苦しそうに顔を歪める。「……怒鳴ったりしてすまん」「何なんだよ」「なんでもない」「なんでもないわけないだろ。なんだよそれ! 怪しい書類か?」 淳は父を睨んだ。「最近ずっと変だ。電話が鳴るたびに外へ出るし、誰かに尾けられてるみたいに後ろばかり気にしてる」「淳」「会社で何かあったんだろ!」 義昭は答えなかったが、その沈黙こそが答えだった。「海原グループが関係してるの? 父さん、いつも一郎さんのこと自慢してたじゃん」 父の肩が強張ったのを、淳は見逃さなかった。「海原で何が起きてる?」「……何も聞くな」「父さん」「頼む」 義昭は両手で顔を覆った。その姿を見た瞬間、淳の怒りが消えた。 父が怯えている。仕事一筋で、多少のことでは動じない男なのに、この怯えようはなんだ? いったい、なにが起こっているんだろう。「淳」 義昭が、ゆっくり顔を上げた。「もし、万が一、俺たちに何かあったら……」「何言って
その後、淳は予定通り使用人としての部屋をあてがってもらい、海原家のベッドで眠ることができた。 なかなか寝付けなかったが、ようやく寝付いたと思った頃、唐突に意識を引き戻された。 また、あの夢だった。 視界を埋め尽くす、底知れぬ漆黒の水面。 吹き荒れる夜風に煽られ、乱れる濡れた長い黒髪。 崖の突端に、雨に打たれた白いドレスを纏った美しい女が、ひとり背を向けて立ち尽くしている。 場面が変わる。場所はどこかの別荘のようだ。 女性が自分をすり抜けて走っていく。 波が崖へ叩きつけられるたび、白い飛沫が闇の中へ舞い上がった。 淳は裸足で走っていた。足の裏が切れているのか、一歩踏み出すたびに痛む。それでも止まることができない。 少し先を、先ほどの女性が走っている。長い黒髪に雨に濡れた白い服。 「待って!」 叫んだはずなのに声が出ず、女性は振り返らない。 その先には崖しかなかった。恐ろしい程に牙を剥いた波が、その身を岸壁にたたきつけるようにしてしぶきを上げている。 ――行くな!――そっちへ行くな!! 手を伸ばそうとしても、指先ひとつ動かない。 喉を裂くように叫ぼうとしても、声は掠れた吐息になって消えていく。 それでも淳は必死に手を伸ばす。 あと少しで届くその瞬間、女性が立ち止まった。 ゆっくりと振り返る。 なぜか顔は見えない。 ただ、泣いていることだけはわかった。雨で濡れたのではない。 ぼんやりと輪郭の見えない顔なのに、その目からは涙があふれていた。 『一度でも……』 彼女の唇が動く。 『私を愛したことはあった?』 「……っ!」 次の瞬間、彼女の姿が崖の向こうへ消えた。 慌てて彼女を追いかけ、淳は手すりを越えて飛び込む。 冷たい海はまるで暗黒。光の一切入らない暗闇に覆われている。 その水の中に、白い手が沈んでいく。 掴もうとしたけれど、それは届かない。 自分からどんどん離れて行く。 もう掴めないのか? この気持ちを伝えることはできないのか? こんなにも愛しく思う気持ちを、どうして伝えられないのか――「瑠理子――!」 今度は、はっきりと声が出た。 自分の声で目が覚めた。気が付くと見慣れない天井が目に飛び込んでくる。(ここは……) 暗闇の中で、荒く乱れた呼気が部屋に
その日の夕食後。館の空気が夜の静寂へと沈み始めた頃、瑠理子は意を決して二階の奥にある父の書斎の扉をノックした。「入りなさい」 低く重みのある声に応じ、瑠理子は静かにドアを開けて中へ足を踏み入れた。 重厚なマホガニーの机に向かい、眼鏡越しに決算書へ目を通していた父が、瑠理子の姿を認めるとわずかに眉尻を下げてペンを置いた。「瑠理子。……昼の非礼についてなら、私から淳君にそれとなくフォローを入れておいた。彼も気にしていないと言っていたから、お前もそう頑なになるな」「私の意思は変わりませんわ」「瑠理子……」「あと、御堂直之さんの所に連絡はしていただけました?」「お前、あんなに嫌がっていたのに……。『顔も知らない十歳以上も離れた人と政略結婚なんて絶対にお断りだ』と、手紙すら突き返したはずだが、どういう風の吹きまわしだ?」――当時の十八歳の瑠理子にとっては。 知らない男に人生を売り渡すような結婚なんて考えられなかった。 いつか巡り会う運命の相手と恋をして、世界で一番幸せな花嫁になって、温かい家庭を築いてずっと一緒に生きていく――彼女はそう信じていたから。 しかし、その甘い夢を信じていた相手に、すべてを踏みにじられ、殺された。「気が変わりました」 毅然と言う瑠理子へなにか言いたそうな一郎のもとに、電話が入った。「……何?」 受話器を持った父が、珍しく声を上げた。瑠理子は、冷静な彼が取り乱すような声を上げているので気になった。「承知しました。何卒、よろしくお願いいたします」 受話器を置いた彼が、深いため息をついた。「どうしたの、お父様」 一郎は信じられないものを見るように娘を見た。「電話、御堂家からだった」「どのようなご回答をいただいたのですか?」 まさか断られたのか――「先方も縁談を進めたいそうだ」「それは良いお話ですわ」「いや、それだけじゃない」 父の表情が険しくなる。「直之氏本人が、そう言っているらしい」 瑠理子の視線が揺れた。「ご本人が?」「ああ」 父自身も理解できないようだった。「あの御堂直之氏が、だ」 女性との縁談をすべて断ってきた男。結婚する気がないとまで噂されていた男。 その男が、顔も合わせたことのない自分との縁談を、わずか数時間で受けた? 瑠理子にとってはありがたい話だが、こうもうまく未来が切り







