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前世で私を壊した夫から、二度目の人生では逃げ切りたい ~冷徹な復讐者は私を二度と離さない~
前世で私を壊した夫から、二度目の人生では逃げ切りたい ~冷徹な復讐者は私を二度と離さない~
Author: さぶれ-SABURE-

第一話 一度でも、私を愛したことはあった?

last update publish date: 2026-08-15 22:32:02

 窓の外で、海が鳴っていた。

 海原瑠理子(かいばらるりこ)が潮風を直接肌に感じなくなって、三か月が経っていた。

 この別荘へ連れて来られてから、彼女は一度も外へ出ていない。門には鍵がかけられ、スマートフォンは取り上げられ、庭を歩くことすら許されなかった。

 父は不正の濡れ衣を着せられて失脚した。母は謎の事故で死んだ。祖父の代から続いた海原グループは、持ち株を買い集められ、役員を一人ずつ差し替えられ、いまでは名前だけを残した別のなにかに変わっている。

 そして瑠理子自身も、この部屋へ閉じ込められた。

 三か月前まで手入れを欠かさなかった長い髪は艶を失い、今はろくに梳かしてもいない。毎日のように泣いていたせいで目元は腫れ、何度も淳を責め、叫び続けた声はすっかり掠れていた。

 かつては海原家の一人娘として華やかな場所に立ち、誰もが羨む人生を送っていた。

 そんな瑠理子からすべてを奪ったのは――彼女の夫だった。

「淳(じゅん)」

 名を呼ぶと、扉の前に立っていた男が振り返った。

 海原淳(かいばらじゅん)。三十一歳。海原グループの新しい代表取締役。そして十年前、身寄りを失って海原家へ引き取られてきた、橘淳という痩せた青年。彼は婿養子として海原家に迎えられた。

 瑠理子は、彼のためなら何もかもを差し出せると思っていた。

 実際、差し出した。家柄も、周囲の反対も、後継者としての立場も、すべてを押しのけて彼と結婚した。世界で一番幸せな妻だと信じて疑わなかった。

 その結果、この部屋に閉じ込められている。

「気分はどうですか」

 淳の声は昔と何ひとつ変わらない。

 低く、静かで、こちらを気遣うような声。

 熱を出した夜に、朝までそばにいてくれた声。

 結婚式の日、「綺麗だ」と囁いてくれた声。

 今では、その優しささえ復讐のために作られたものだったのではないかと思う。

 それなのにまだ、その声を聞くだけで胸の奥が揺れる。

 そんな自分が、瑠理子は何より許せなかった。

「聞きたいことがあるの」

「どうぞ」

「私の父を潰したのも、母のことも、この会社のことも、もう責めない」

 淳の眉が、わずかに動いた。

「あなたが海原家を憎んでいたことも、今なら分かる。だから最後に、ひとつだけ教えて」

 言葉が喉で一度つかえた。

 これを訊いてしまえば、もう戻れない。

 それでもこの三か月、眠れない夜のたびに、瑠理子の内側で膨らみ続けたのは、この問いひとつだけだった。

「一度でも……」

 声が震えた。

「私を愛したことはあった?」

 淳が瑠理子を見た。その表情が初めて揺れた。

「……瑠理子」

 唇が開く。けれど、続く言葉は出てこない。

 淳は何かを言おうとしているようだった。

 視線を伏せ、また瑠理子を見る。喉が小さく動く。

 彼は答えない。それでも瑠理子は待った。

 たった一言でよかった。嘘でもよかった。

 愛していた――そう言ってくれたなら、この十年間すべてが偽物ではなかったと思えたかもしれない。

 けれど、淳は答えなかった。

 瑠理子の中で、最後まで残っていた何かが静かに折れた。

 答えられない事実が、残酷な答えなのだ――

 瑠理子は立ち上がった。淳の脇をすり抜け、そのまま廊下へ出る。部屋の扉は、彼が入ってきたため鍵が開いていた。

 廊下にいた使用人が驚いたようにこちらを見る。けれど瑠理子のすぐ後ろには淳がいる。誰も、瑠理子がどこへ向かっているのかまでは分からなかったのだろう。

 瑠理子は早足で歩いた。やがて海に面したテラスへ出る。三か月ぶりに潮風が直接頬へ触れた。

 夜の海はどこまでも黒く、底など最初から存在しないように見えた。

「瑠理子!」

 背後から、淳が名前を呼んだ。その声に呼ばれれば、瑠理子はいつも振り返った。

 喧嘩をした日も、泣いていた夜も、どれだけ腹を立てていても、淳に名前を呼ばれると、結局は振り返ってしまったのに。

 その夜は、初めて振り返らなかった。

「瑠理子、待って」

 冷たい風に頬を撫でられるまま、瑠理子は目を閉じた。

 淳。

 好きだった。誰よりも愛していた。

 だからこそ、もう耐えられなかった。

 あなたが惜しみなくくれていた愛が、本物ではなく、偽物だと気が付いてしまった今は――

(もし、生まれ変わることがあっても)

 瑠理子は柵の向こうへ身体を預ける。

(あなただけは、もう愛さない)

「瑠理子!」

 淳の叫び声を振り切った。次の瞬間、瑠理子の身体は夜の海へ落ちていた。

 瑠理子の問いに対して淳が答えられなかったのは、答えがなかったからではない。

 この恋は復讐のために始めたものだった。それは事実だ。ならば、いつから本気だったのか。どこからが計画で、どこからが自分だったのか。十年分の記憶を掻き回しても、境目が見つからなかった。だから、なにも言えなかった。ただそれだけのことだった。

 だが彼女の姿が柵の向こうへ消えた瞬間、淳は理解した。

 境目など、最初からなかったのだ。

—―復讐などどうでもよくなっていた。本当は、死ぬほど瑠理子を愛しているのだ。

 かわいくて。

 自分だけを一心に愛してくれた。

 でも、自分は海原家に恨みがあって、復讐しようと瑠理子に近づいた。

 瑠理子を取り戻そうと、淳は考えるより先に手すりを越えた。

 荒れ狂う冷たい海へ飛び込む。

「瑠理子!」

 水面へ顔を出して叫び、また潜る。

 暗い。

 何も見えない。

 それでも必死に腕を伸ばせば、白いものが見えた。

 瑠理子の手だ。

 淳は夢中で泳いだ。

 あと少し。

 あと少しで届く――

 指先が触れるが、水の中ではうまくつかめず、瑠理子の手は淳の中から滑り落ちた。

「……っ!」

 もう一度伸ばす。

 もう届かない。

 瑠理子の姿が暗い水の底へ消えていく。

 その瞬間、さっきの問いが頭の中に蘇った。

『一度でも……私を愛したことはあった?』

 答えればよかった。

 君の笑顔が好きで、触れたくて、失いたくないから閉じこめた。

 あの男から守るために……。

 愛しているなどと口にすることが、あまりにも卑怯に思えた。

 復讐のためにと自分の手で何もかも壊しておきながら。今さら彼女に愛を告げる資格などないと思った。

 けれど。

「瑠理子……!」

 もう見えない。

 どれだけ潜っても、どれだけ手を伸ばしても、彼女はいない。

 肺が苦しい。身体から力が抜けていく。

 淳はもう一度水の底へ手を伸ばした。

「瑠理子……愛してる」

 泡と一緒に、届くはずのない言葉が零れた。

 瑠理子に届かなければ、何の意味もない。

 瑠理子のいない世界は、もう、絶望しかないだろう。

 冷たい海の中で、ゆっくりと瞼が落ちていく。

 彼女を愛したことも、彼女を傷つけたことも、すべてを抱えたまま、

 瑠理子の後を追うように、淳も深い海の底へ沈んでいった。

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